游独日記

趣味について 日々の随想など

『Serial Experiments lain』(アニメ版)について

 掲題作は、周りからも薦められ、海外にもファンが多いとの事で、名前だけは知っていたところが、退屈を紛らす候補の中からふと浮かび上り、見終わった余韻に何か書き残したくなった。一応ネタバレ注意。

 

・広義の演出

 開始早々、異様な雰囲気に包まれている。光の過剰にシルエットと化した電柱を通る電線からは、ブウウウ…と、『ドグラ・マグラ』冒頭を想起させる重低音が溢れ、柱や塀の陰は異界へ通じているかのように紫の斑模様を怪しく湛えている。主人公・玲音の目を通して見る世界では、「リアル」が希薄になり、同じく薄れてゆく自身の肉体にあらゆる刺激が過度となり襲いかかっている。玲音の眼はそれに抵抗しているのか、常に瞳孔が収縮しているようだ(最終話、アリスと対面して笑顔を見せる場面で瞳孔が開いているが、アリスが契機となりリアルへの関心を取り戻したともとれる)。余談だが、玲音のデザイン・描写は、前述の他に土気色の肌、後半部のマシンと接続された様等、ネクロフィリアと接するドール趣味に通じるものがあるように感じた。

 

光の充溢に陰となり、輪郭が曖昧となったリアルワールドは、非本質の世界としてネット世界「ワイヤード」と対置される。次第に「リアル」を失って行く玲音の逃避先は、情報の混沌として描かれ、CGの効果的使用と相俟ってアングラ世界の様相を帯びている。「ワイヤード」や「ナビ」といった、本作の主な舞台装置に通底するこのアングラ性は、当時のPCマニアに纏わる雰囲気をよく保存し、作品の主調をなしている。「ワイヤード」の深部は裏社会に通じており、場末の地下クラブ「サイベリア」での、「ナビ」の改造や電子ドラッグの情報がやり取りされる描写などもこのアングラ性をより強めている。

 

本作の軸となるネット世界はまた、「リアル」への干渉を通じ、夢中のような超現実性となり、部外者にはそれが玲音の病夢か、あるいはありのままの「リアル」なのかが不明瞭となる。予測不可能性は意地の悪い製作者にホラー映像の格好の実験場を与え、それは特に玲音の(役割上の)姉の描写に著しい。最終話、友達が玲音宅を訪れる場面、肝の太さに感心したのだが、私ならば荒れ果てた廊下にまず生きた心地を失い、踊り場にコンピュータお姉ちゃんが登場した段階で泣いて帰っていたはず。

 

・テーマ

「ワイヤード」と「リアル」の関係、またそこでの玲音の役割が明らかになる中で色々なテーマが取り上げられ、結論の無いままに終幕となる。例えば、電気文明の誕生と同時に「リアル」と独立した電気の世界が創造され、電気信号である人間の脳活動に干渉することにより「リアル」を侵食している等はSFの舞台設定として良く出来ているが、やはり中心テーマは「ワイヤード」と「リアル」にまたがった偏在として自己同一性を失った玲音が問いかける自我論だろう。人間の存在根拠を他者の記憶(=記録)に求めているのは興味深い。最終話、失いかけていた「リアル」への関心を取り戻した玲音が全てを「リセット」した後も、彼女は人格として他者の記憶に存在しているようで、玲音自身も、一人格であると同時に偏在として、あらゆる他者の存在の保証人となりつつも、神の孤独から、顕現し「記録」されたいという人間性を見せるところに、最近の例では概念となったまどかにも通じる、日本人の冷徹になり切れない素朴な神性観が出ていて面白い。対蹠的例として、『ファウスト』のグレートヒェンは「永遠に女性的なるもの」(Das Ewig-Weibliche)に合一しつつ、その姿(個別化)はあくまでそれを見んと欲する者が僅かに垣間見るに過ぎないのだ。

 

 

 所謂「質アニメ」としては、衰退した地方都市に暮らす中学生生活の閉鎖性と、そこで鬱積してゆく倒錯的恋情を、背景と音楽(の不在)の効果的な演出とロトスコープの実験的試みにより見事に描いた『惡の華』以来の当たりだった。